各地に記録的な大雨や強風をもたらした台風19号の影響で、大河津分水の水位は観測史上最高の17.06mを記録。越水、さらには破堤に至る寸前だったが、「越後平野の守り神」は瀬戸際で下流側の越後平野を台風19号がもたらした脅威から守り切った。緊迫の10月13日を時系列で自分史的に振り返る。
大河津分水の歴史をかいつまんで。1896年(明治29)7月22日、信濃川を大河津分水に分流する地点から約6km下流の燕市横田(当時の横田村)の堤防が決壊し、新潟市中央区関屋まで約180km2が浸水し、さらに9月、10月にも洪水が発生して復旧は12月になったと言われる。「横田切れ」だ。その間、水が引かず、未曾有の被害をもたらした。
そこで信濃川の水を分流して日本海へ注ぐ分水路として1907年に大河津分水が建設が決定。「東洋一の大工事」と呼ばれ、延べ1,000万人が従事し、1922年に通水したが、5年後の1927年に自在堰(じざいぜき)が陥没。新たに可動堰が建設され、1931年に完成。建設工事とその後の補修工事、維持管理工事で100人が殉職し、今も毎年春に大河津分水殉職者慰霊式が行われている。
今回の台風19号は「過去最強クラス」と言われた。台風は進行方向の右側の風が強く、左は弱いと言われる。台風が太平洋側を通過するときは新潟は風は強くならないことが多い。
新潟への最接近は12日夜。三条で観測した瞬間最大風速は23.9mで、強風には違いないが、冬の大荒れのときでもこれくらいの風は吹くので驚くほどではなかった。大きな被害はないだろうと、翌13日に被害のまとめを記事にして台風関係の取材は終わりだと考え、12日は夜中の被害取材はやめてさっさと寝ることにした。
疲れがたまっていたこともあって13日は目が覚めたらすでに8時半。ネットをのぞいて驚いた。燕市と弥彦村に洪水警報が出ていた。意味がわからない。調べたら千曲川の堤防を決壊させた大量の水が時間差でやってきて、大河津分水の氾濫の危険性が高まっているとわかり、慌てて取材に飛び出した。
大河津分水右岸側の信濃川大河津資料館付近の堤防へ向かった。大河津分水の姿に目を疑った。700m前後もある両岸の堤防の間が、あふれんばかりの茶色に濁った水で満たされている。ふだんは堤防から川に向かって約300m先まで広がる高水敷の先に水が流れている。その水が手が届きそうな距離にあるのは、夢を見ているような現実感のない光景だった。
大河津分水は氾濫危険水位の16.10mを超えた。9時半に燕市が分水小学校区と分水北小学校区に警戒レベル4の避難勧告を発令し、6カ所に避難所を開設した。避難勧告の対象は4,115世帯の1万1,296人。それより早く8時半に燕市災害対策本部を設置していた。弥彦村は燕市に先だって午前7時50分に避難準備情報を発令し、弥彦体育館と弥彦中学校に避難所を開設した。
身の毛がよだった。万が一、大河津分水が破堤するようなことがあれば、新潟市の中心部まで浸水し、長期間にわたって水が引かなくなる。横田切れの悪夢の再来だ。空前絶後、前代未聞といった手あかのついた言葉を重ねても足りないほ危機一髪の切迫した事態だ。
下流側に移動した。流木が目立つ。午前9時45分ごろ、越後線の鉄橋が架かる部分では作業が行われていた。先に細田健一衆院議員が現地の確認に訪れていた。線路の部分は堤防が2m近く切り下げてあり、水位が上がれば真っ先にここから越水する。石や砂を入れたパックを重機で積み上げて堤防と同じ高さにする作業が行われていた。
水は橋の下まで1mもない高さまで上昇。大きい木が流れてくると鉄橋にぶつかり、バキバキと音を立てて流れていく。
10時19分、三条市が加茂市、見附市、燕・弥彦総合事務組合が福島県相馬市へ給水車を派遣するため、加茂市役所で出発式を行うという知らせが入る。とても加茂市へ行っている時間はない。やむを得ず、代わりに写真を撮ってもらえるように手配して、さらに下流の河口付近へ向かった。
途中、避難所へ避難を呼びかける防災行政無線が鳴った。10時半ごろ、第二床固(だいにとこがため)は川底に大きな段差が2段階になっているため、それまでのゆったりした流れとは一変。濁流に姿を変えて日本海へ注ぐ。濁った水は霧となって降り注ぎ、土のような強いにおいが漂う。
対照的に上空は青空が広がっていた。大河津分水のようすを見に市民が続々と堤防を訪れ、ちょっとした渋滞が発生することも。しばらく川の流れを眺めたり、スマホで写真を撮ったりしていたが、すでに氾濫危険水位を超えているので、いつ自分の足元の堤防が崩れるとも限らない。これも自分に都合の悪いことは過小評価してしまう正常性バイアスなのだろう。
10時40分に水位は16.32mに達したという知らせ。これまで最高だった1982年の16.23mを超え、観測史上最高水位を記録した。しかも氾濫危険水位を超えたうえに、計画高水位16.28mも超えた。堤防の高さは計画高水位よりさらに約2m高く建設されているとはいえ、設計を超える水位で極めて危険な状態に陥った。
避難所のようすを取材しようと、避難対象区域の分水地区の分水総合体育館に向かった。途中、11時13分に地蔵堂本町で10人ほどの住民が外に出て集まっているのに出くわした。知り合いのフリーアナウンサーもいて、聞けばひとり暮らし世帯をはじめ町内の各世帯を手分けして回って声かけしたり、避難を呼びかけたりしていた。町内のデイサービスセンターが自主的に避難者を受け入れ、そこに避難する人もいた。
分水地区はコミュニティーがしっかりしていて、防災関係の事業にも協力的。障害者の対応に重点を置いた避難訓練も行われており、その成果が表れていた。近所の美容室では従業員が帰ろうとしていた。避難勧告が出たので店を早じまいした。従業員は大河津分水に架かる橋を渡れるかどうかなど、不安そうな表情だった。店主からは「何か情報があったらよろしくお願いします」と深々と頭を下げられ、身が引き締まる思いだ。
11時33分、分水総合体育館に到着。60人以上が避難していた。取材中にも次々と避難者が訪れた。午後0時13分、分水地区のコンビニ店に立ち寄った。青空をヘリコプターが飛んで行く。再び防災行政無線が流れた。今度は危険なので大河津分水の堤防から離れるよう呼びかける内容だった。
燕市役所が設置した燕市災害対策本部のようすも見ておこうと午後1時4分、燕市役所に到着。臨時招集なので職員の服装はラフだが、休日返上で100人余りが登庁した。防災課などがある3階のフロアは、開庁しているかのような職員の数。デスクには昼食にインスタント食品や菓子が上がっていた。
三条地域振興局職員と陸上自衛隊新発田駐屯地の迷彩服を着た自衛官も市役所に詰めていた。避難所の避難者を確認すると、多いところで300人、合計で約800人を数えた。あとで確認すると、避難者の数は13日午後2時がピークで、合わせて1,088人が避難していた。
午後1時20分には水位が16.88mに。計画高水位を0.6mオーバーしている。午後3時ごろが水位のピークと見られ、堤防を超えることはないと思われたが、堤防が極めて危険な状態にあることに変わりはない。
プライベートで三条市下田地区で開かれた「リバーサイド音祭」に午後3時35分からバンドで出演することになっていた。自分だけならキャンセルしたが、ほかのメンバーに迷惑をかけられないので、後ろ髪を引かれながらもいったん家へ戻っていくつか記事をまとめ、楽器を積んで会場へ向かった。会場へ行くと、出演をキャンセルした新潟市の職員もいた。
出番10分前に会場の有限会社ヤマセンに到着。ひといきつく間もなく楽器をセッティングして演奏したが、さすがに頭が演奏モードに切り替わらない。
会場へ向かう途中で、午後3時の水位が17mを超えて17.05mに達したが、同時に水位の上昇が止まったと聞いた。大河津分水が守り切ったと安堵したが、水位の上昇が止まったからといって急に安全になるわけではない。堤防が水につかっている時間が長ければ長いほど土の中に水が浸透して堤防は弱くなっている。警戒を緩めることはできない。燕市は、水位が氾濫危険水位の16.10メートルを下回ったら避難所を閉鎖、避難勧告を解除する方針をかためた。
30分ほどで演奏を終わるとすぐに会場をあとにして三条市役所へ向かった。給水車の件を取材するためだ。午後5時ちょうどに庁舎に到着すると、ほとんどの職員が退庁していて無人のような状態。かろうじて帰ろうとしている行政課職員をつかまえ、課長にも電話を取り次いでもらった。
このころには水位が下がり始めていた。弥彦村は水位が下がり始めたことで午後4時半に避難準備を解除し、避難所も閉鎖していた。それでも大河津分水のようすが気になる。とりあえず分水方面へ車を走らせた。東の空に低く浮かんだ満月の1日前の月が、ひときわ美しく輝いて見えた。自然の営みに人間の小ささを感じ、100年も前に先人が築いた大河津分水が越後平野を守りきったことに感謝。さまざまな思いがこみ上げた。
午後6時20分に堤防に到着。すでに真っ暗になっていてよく見えず、水位もはっきりわかるほどは下がっていなかったが、流れは穏やかになったように感じた。この時間になっても大河津分水のようすを見に来る人がいた。せっかくなので帰り道、避難所を開設した分水公民館へ寄った。午後6時半。60人ほどの避難者がいた。
ケージに入れたネコを連れて避難してきた若い女性もいた。避難所でのペットの扱いをどうするかは難しい課題だ。ペットのにおいや鳴き声の対策が必要だし、ペットアレルギーをもつ人もいる。今回はケージを玄関に置いた。女性はネコのトイレの始末をしていた。ペットを家に置いて自分だけ避難はできない。一緒に避難できたことに感謝していた。
弥彦スカイラインの通行止めが解除されたことなどをアップし、この日の取材は終了した。1日の移動距離は91km。帰宅して記事を作成。午後9時の水位が16.05mとなり氾濫危険水位16.10mを下回ったことで午後9時20分、燕市は発令からほぼ12時間ぶりに避難勧告を解除。ついに大河津分水は越後平野を守り切った。万歳したい気持ちになった。
ただ、読者から大河津橋下流の右岸側、三角屋商店そばの堤防下で漏水があり、心配しているという情報をもらっていた。気になっていたので関係者にも問い合わせたが、自分の目でも確認しておこうと14日朝、現地へ向かうと漏水カ所にブルーシートがかけてあった。国交省では大きな問題ではないという判断らしい。ほかにも何カ所か漏水があったようだ。
11日からばたばたと忙しかった。11日は燕市でイノシシの猟銃による駆除があり、三条市ではクマが里へ下りて来て月岡地内でカキの実を食べたあとが見つかった。午後には早くも燕市が台風19号に備えて自主避難所を開設し、台風の影響によるイベントや事業の中止の情報が次々と飛び込んでくる。12日は県央地域の市町村が次々と避難所を立ち上げ、気象警報が出て、各地の被害の情報も届く。からの13日の大河津分水の増水で、目が回るような3日間だった。
2022年に大河津分水は通水100年の節目を迎える。長岡造形大学が100周年のロゴのデザイン制作を始めるなど、100周年記念事業の取り組みが始まっている。図らずも今回の台風19号が大河津分水への関心を集めることになった。大河津分水を擬人化して功績をたたえる大河津分水ファンがいるが、その気持ちがわかった気がした。
大河津分水は、河口部で洪水を安全に流下させる断面が不足しているとして2032年度の完工を目指して現在、大規模改修が行われている。今回は守りきったが、また同じような雨でも再び守り切れるとは限らないし、さらにいつまた今回を上回る雨に見舞われるかもしれない。改修の必要性をあらためて再認識させられた。