燕市教育委員会の遠藤浩教育長が定例教育委員会の配布文書でコロナ禍の解消は戦争が発生することなどと記載した問題で燕市教委は9月11日、遠藤教育長の発言を書き加えて修正した会議録をホームページで公開した。
遠藤教育長の辞任を承認した4日の臨時教育委員会で、教育委員から遠藤教育長の教育長報告の内容をきちんと盛り込んだ会議録をあらためてホームページで公開するよう求める動議があり、同意を得たことから修正して公開した。
会議録の録音データはすでに消去してあることから、録音から文字起こしした文書を基に、先に公開した教育長報告に付け加える形で修正し、文字数は1,182文字から1,407文字に増えた。とくに問題が指摘された部分の前後に付け加え、問題部分の発言の意図をより明確にしている。修正した教育長報告全文は次の通り。
※赤字が付け加えた部分
子供たちにとって本当に短い夏休みが終わった。子供にとって、遊びも学びの一つなのだろうから、今年の夏の子供たちの成長は小さいのだろうか。そうであっては困るのだが、きっと多くの子は「諦める」ということを学んだのであって、何かに夢中になることはできなかったのだろう。間違いなく「コロナ世代」の誕生である。
大きな災害があると、子供たちの心のケアにも注目が集まり、学校にカウンセラーが派遣されたりする。しかし、コロナ世代に対する心のケアはカウンセラーが得手とする守備範囲ではないと思う。災害で傷ついた心、その心の声を聴くことからカウンセラーは始めることになるだろう。コロナ禍による心の傷は、恐怖などによる心的ストレスとは異なるのではないだろうか。コロナ禍が子供に与えたのは、命を守るためには仕方がないと「諦める」ことである。やる気みたいなものを削いだはずである。
そんな子供たちの顔をあげさせ、前を向かせるのは教員の仕事である。教材となるものを与え、考えさせ、まとめさせ、発表させたりする。その流れの中で、諦めたことをしっかり受け止めさせる。ごく当たり前の授業でいい、あまり特別なことはしなくてもいい。
繰り返すが、今学校に求められているのは、単純なカウンセリングマインドではない、教員の指導力なのである。ここで立て直しておかないときっと学年が進むにつれて不登校傾向を示す子が増えていくことぐらいは誰にだって予想できる。今年は、広島派遣を行えなかったが、8月は平和を強制的に考えさせられ、どうしても平和を考える月であり、それが世の常である。原爆の日があり、8月15日の終戦の日があるからだろう。現在の式典の映像と当時のモノクロ映像、砲弾とともに死体が映し出される。
担任をしているときには、夏期講習の合間に「きけわだつみのこえ」から引用した資料で生徒に戦争とは何かを考えさせていた。
ところで、こうした死を前にした手記のようなものを読んでいると、どことなく死が美しいもののように感じそうになる。愛するものを守るために死ぬ。それは正しい愛の形なのかもしれない。しかし、それが教育によって作り出されたとするならば、その教育のあり方そのものが間違っていたはずである。教育は死に方を教えるのではなく、あくまでも生きる術を教えるべきなのである。戦没学生の手記にあるとおり、数学好きな学生は戦場に行っても数学を考えている様子がうかがえる。私も同じ立場になれば数学のことを考えるのだろう。こんな人には、なんとしても生きて帰ってきて、教員になってほしかった。
今のコロナ禍を短時間で解消する方法は、どこかで大きな戦争が発生することではないだろうか。中国とアメリカが自国以外の地域で戦争を始めれば、お金は動く。コロナ騒動などそっちのけで、ミサイルの発射の瞬間が繰り返し放送されるだろう。きっと経済が上向くきっかけになるのではないか。クリミアでもいい。
紛争とか戦争が始まれば武器という商品で経済は回復するだろう。罪のない人間の命との交換である。他に何かいい策があるのだろうか。愚かな人間であり続ける限り、注目の矛先を変えることでしか事態を乗り越えられないのかもしれない。
人間は愚かだから、コロナで閉塞感が出てくると、戦争を始めるかのように目先を変える方法を考えてしまうのでないかという気がしてならない。私は、そんな愚かな人間ばかりでないことを願っている。
※枠内は教育長報告として配布した文書に記載されていたものをそのまま貼りつけ