2022年は、新潟県で信濃川の水を日本海にバイパスして流す大河津分水が通水100周年、関屋分水が通水50周年の節目を迎える。国土交通省と関係9市町村などは大河津分水路の通水日の8月25日、信濃川河川事務所大河津出張所で記念事業を進める「未来につながる事業実行委員会」の設立総会を開いた。
大河津分水は1896年に今の燕市で信濃川が破堤して新潟市関屋まで浸水した「横田切れ」をきっかけに建設された。燕市と長岡市にまたがり、1907年に着工、15年を費やして22年に通水した。
関屋分水は新潟市の中央区と西区に築かれた。地盤沈下による浸水が目立つようになった1960年ごろから信濃川による水害から守り、新潟港の土砂堆積の抑制を主な目的に1964年に着工、72年に通水した。
実行委員会は国交省や新潟県と、大河津分水から信濃川下流域の新潟、長岡、燕、三条、加茂、見附、五泉、田上、弥彦の8市町村の首長で構成。中原八一新潟市長を会長に決め、記念事業案を検討した。
事業は分水の歴史や信濃川の恵みを再認識する「歴史を知る」、多くの人々が集い参画する「繋(つな)がりを創(つく)る」、川と社会と人とのかかわりを考える「未来を考える」の3段階のステップを設定した。
具体的にはこれまでマーク展開、パネル展、小学生向けの出前講座などを行い、今後は分水講演会、自治体事業連携、合同特別展、広報誌発行、川のスポット募集、川学習冊子配布、川づくりアイデア募集、分水サミットなど行い、来年8月には一体感をもった取り組みを今後、検討する。来年12月に行う記念シンポジウムがこの事業の集大成になる。
燕市の鈴木力市長は、各地自治体の取り組みを勝手にばらばらにやっているのはもったいないので各自治体の取り組みを登録して全体として広報する仕組みができあがれば、より明確になるのではないか、さらに大河津分水だけでなく関屋分水も同じ状況と思うが、これまでの感謝と未来に向けてのメッセージという意味での花火をぜひ実施してほしいと提案した。
信濃川河川事務所の今井誠所長は、自治体の取り組みの登録の提案には「実際に自治体が独自で進める事業も、今回の100周年記念事業という冠とかいったものをつけて、一体感をもってやっていくということができれば、いろんな事業の相乗効果も進むのでそういった形で進めたい」と話した。花火については「どういう形でやっていくか、またこの実行委員会なり、ほかの場を通じて相談させてほしい」と述べた。
弥彦村の小林豊彦村長は事業案の内容に「第一印象は硬い」、「誰でもちょっとした親しみがあるような事業を入れられたらいい」と提案。これには「内部の若手のメンバーで進めているので、ちょっとおもしろいことをしようという話もしている」と答えた。
出席した8市町村長が色紙に書いたメッセージを披露し、そこに込められた思いを発表した。色紙は信濃川大河津資料館に展示する。各首町のメッセージとコメントは次の通り。
中原八一 新潟市長「恵水萬代」
「恵水萬代」とさせていただいた。大河津分水と関屋分水の治水によって流域では安全が確保され、洪水などの災害を受けることなく、わたしどもは水に親しみ、水の恵みを受けて繁栄することができている。
この豊かな環境が将来にわたって続いていってほしいという願いを込めて「恵水萬代」とした。日本一の大河、信濃川の最下流部に位置する新潟市の万代橋や、やすらぎ堤などの水辺が、多くの人に親しまれているのは、治水のおかげであり、感謝している。
磯田達伸 長岡市長「治水共栄」
わたしは「治水共栄」と書かせていただいた。今ほどので議論のなかにも燕市長から花火どうかという話があって、晴らしい提案だなと思った。ご存知のように長岡市の花火大会は2年続けて中止になったが、まさに長岡花火は信濃川のほとりで上げるということが意味があって、日本のなかでも極めてそこが評価されていると思っており、信濃川がなかったら長岡の花火は意味がないというもの。そういうなかで今回、分水100周年、50周年のこういった企画、委員会が立ち上がったのは本当にありがたいと思う。
ただ、タイミングとしては、あまりにジャストというか、ぴったりのタイミングすぎて、というのは、この分水事業がもつ意味を学ぶということだが、今ほど治水の意味というか価値というか役割を注目されているときはないと思う。
それぞれの地域で発展、繁栄を期してそれぞれ取り組んでいるが、とくに分水の上流の、洗堰(あらいぜき)上流の地域にとっては、今まではなんとなく下流の皆さんは繁栄していい事業だなという感じもあったが、今まさにちょっと違うような様相で、破堤したらどうなるのかということで、20万人が逃げるのかというような話になり、非常に長岡市、あるいはその上流、苦慮しているわけだが、まさに100年たって治水の意味が大きくなってきた。
そのことによって、すべての流域の市町村、地域の人で反映していきたいと多う。国交省の繁栄を。これによって、さらに、それはちょっと余計なことだが、本当にしっかり仕事をしながら安全を高めていければなと、その機会になっていただければと思う。
滝沢亮 三条市長「和泥合水」
わたしは「和泥合水(わでいがっすい)」という言葉にさせていただいた。仏教の言葉で自分の身をていして、自分の身を犠牲にして人を助けるという意味。まさしくこの大河津分水、関屋分水の存在そのものが人を助ける、そして自分のことを犠牲にしてということだと思う。
ことし4月に初めて慰霊の式典にも参加させていただいた。各工事で本当に多くの人が携わって、大河津分水、関屋分水が存在している。現在、大河津分水、令和の大改修で多くの人が携わっているが、このような多くの人の尽力があって、わたしたちの安心安全が守られているんだなということに感謝する意味でこの言葉を選んだ。
藤田明美 加茂市長「恵みの川」
「恵みの川」と書かせていただいた。加茂市は信濃川がちょうど大きく蛇行するところに位置しており、信濃川が運んだ土砂が堆積して、肥沃な土壌をつくり、そこが新潟県内有数の果樹産地になっている。わたし自身も信濃川河川敷にあるモモ畑、リンゴ畑で早朝、出勤前から収穫に向かう両親、祖父母の背中を見て育った。
果樹を栽培している人や果物を食べる人にとっても、川は恵みをもたらすものだと思っているし、ときに川は脅威となるものではあるが、この豊かな土地、過去から続いてるこの土地が未来にも続いてほしいという願いも込めて書かせていただいた。
久住時男 見附市長「川に学ぶ」
わたしは「川に学ぶ」と書かせていただいた。河川法というのが戦後にあり、どちらかというと私ども暮らす人から見れば、川を背にして危ないからというような時代もあったが、1997年に河川法の改正があり、川に学ぶ社会を目指してというタイトルになったと思う。
わたしも25年ぐらいこれにかかわる学ぶという仕事を多少させていただくなかで、私どもふるさとをすべて川によって暮らし、生活が成り立っている。そのことについて自然環境を含めて豊かさ、恵みと、そして危険、いろんなことをもっとわたしども実際に学ぶべきだと。
川は本当に学ぶという観点から非常に大きな力をもっているとあらためて思う。とくにこの越後平野は、大河津洪水と関屋分水によって先人が暮らしや生活を守るため、これだけ大きな仕事を、恵みをつくっていただき、そのなかでわたしどもが生活をしている。そのこと自体が再度、学びの原点として今回の機会に学んでいきたいと思って、川に学ぶという言葉をつけさせていただいた。
鈴木力 燕市長「大河飛燕」
わたしは、「大河飛燕」ということで、大河津分水のおかげで大河、信濃川が流れ、安定になってると。そのおかげで 世界に冠たる産業のまち燕市が発展してきたということで、これまでの大河津分水の役割に関して、これからもその恩恵を受けてしっかりと燕市は飛躍していきますようにという意味を込めた。
先ほどの弥彦村長のから硬いという話があったが、われわれも考えると硬くなりがちだが、燕市の若い人たちに燕市の事業を考えるような仕組みを入れている。今、燕三条駅に大河津神社を若者たちが建立して、第二床固めのコンクリートを使って念ずれば通ずるという、いろんな思いが通るというお守りを作って、それを大河津神社でもらえるとか。
きょう川をテーマにした川柳募集し、ハッシュタグを付けて投稿して、トレンド入りを目指そうと今、若者たちが今、トレンドがどんどん上がっているのかわからないが、地元としてはこれからもこの大河津分水、本当に大河津分水がなければ燕の発展はなかったという思いで、若い人たちが巻き込んで取り組んできた。その意味を込めた。
小林豊彦 弥彦村長「未来の礎」
わたしは「未来の礎」という言葉を選択した。「未来」というのは、きょう、伺ったら実行委員会の名前にもあるが、ぱくったわけではない。結果的に同じだった。信濃と越後のこれからの豊かな未来を担保するのは、大河津分水と関屋分水であるということから、この言葉を選んだ。
佐野恒雄 田上町長「百川帰海」
わたしは「百川帰海(ひゃくせんきかい)」と書かせていただいた。中国の淮南子(えなんじ)という古典から抜粋した。多くの離れ離れになっているものは1カ所に集まる。人の心や、大勢が向かうところ。多くの人々の気持ち、考え方が一致するということだそうだが、「百川」はあらゆるすべての川。このすべての川は最終的には海に注ぎ込む意味から「百川帰海」と読む。とうことで「百川帰海」をあげた。