かつて新潟県の新潟市・白山前駅と燕市・燕駅を結ぶ大動脈だった新潟交通電車線、通称「電鉄」が1999年4月5日に廃線になった。その翌年から「かぼちゃ電車」と呼ばれた電車など3両が旧月潟駅(新潟市南区月潟)でボランティアの地道な維持管理により保存されてきた。そのかぼちゃ電車に23年ぶりに客を乗せて走らせる乗車体験イベント「走れ!かぼちゃ電車」が9日に行われ、関係者はもちろん、鉄道ファンの思いも乗せてかぼちゃ電車が走った。
かぼちゃ電車に客を乗せて走るのが夢だった
イベントを行ったのは、積雪期の冬囲いをはじめ車両のさび止めや破損の修理などを続ける「かぼちゃ電車保存会」(平田翼会長・会員26人)。短いながらレールの上に載せて保存している。これまでも整備のために「アント」と呼ばれる車両移動機を電車に連結して移動させたことはあるが、いつかは再び往時のように客を乗せてかぼちゃ電車を走らせることがずっと夢だった。
実現に向けてことし4月には、初めてかぼちゃ電車と夜桜のライトアップを行った。それにあわせてヘッドライトやテールライト、蛍光灯の車内灯なども点灯できるように改良。着々と整備を進めてきた。
走らせた車両は「モハ11号」。新潟電鉄開業時の1933年に日本車輌製造が製造した電車「モハ11形11号」に、1966年に新造された車体を組み合わせた電車。ボディーの上が黄、下が緑に塗装された配色から「かぼちゃ電車」と呼ばれて親しまれた。
乗車予約は開始7分で完売のプラチナチケットに
乗車体験イベントは8便を運行。1便35人で280人が乗車した。一番列車は地元月潟小学校の児童の貸し切りにした。それ以降の便はネットで乗車予約を受け付けたが、発売からわずか7分で完売した。
県外は関東圏を中心に遠くは京都からも申し込みがあり、予想をはるかに上回る反響で思わぬプラチナチケットとなった。
硬券の記念切符発行、当時の制服を着用し当時の車内放送
かぼちゃ電車保存会の会員は、新潟交通株式会社から当時の新潟電鉄の制服を借りて着て運転士と車掌になりきった。この日、限りの厚紙でできた「月潟から月潟ゆき」とある切符「硬券(こうけん)」を発行。車両に残り込むときには改札鋏(かいさつばさみ)を入れた。
駅舎では当時のスピーカーからアナウンスが流れ、当時に女性の声の車内放送も流れた。まるでかぼちゃ電車の現役時代にタイムスリップしたような感覚。エアーで作動するドアが「プシューッ!」と大きな音を上げて開閉するのも懐かしい。
当日になってエアー抜けのトラブル
事前に試運転を行っているが、土壇場になってトラブルが発生。かぼちゃ電車は自走できず、動力源はかぼちゃ電車の前に連結する車両移動機「アント」だが、ブレーキは外部のコンプレッサーで注入するエアーで運転士の操作により作動する。
当日の本番前にも一度、試運転を予定していたが、なぜか前日に注入したはずのエアーが抜けて圧力が下がっていた。あらためて注入が必要になったため試運転の時間が取れず、ぶっつけ本番での運行となった。
「出発進行!」に車内に響く「動いた!」と拍手
午前10時半に一番列車が出発。乗客は切符にはさみを入れてもらって車内へ。車掌が無駄にかちゃかちゃとはさみを鳴らすのも切符の時代を知る人には懐かしい。ドアが閉まって発車のベルと確認の笛が響き、運転士が前方と後方を指さし確認して「出発進行!」。警笛を鳴らすとゴトンと小さく揺れて動き始めた。
車内では子どもたちの「動いた!」の声に続き、思わず拍手がわいた。間もなく車内アナウンスが流れた。車速は時速10kmていど。走行距離は約50m、発進から停止までわずか40秒ほどだが、車窓の流れる風景、外から見る電車が異動する景色は十分に「走っている」という感覚を味わうことができ、まさに23年ぶりにかぼちゃ電車が息を吹き返した。
レールの両側には100人ほど集まって熱気に包まれ、二度と見ることはないと思っていたかぼちゃ電車が走る勇姿を写真に撮るなどして記憶に焼き付けた。
23年ぶりに時が動き出した
路面電車のある富山県出身の女性(39)は、転勤のため夫と子ども2人と新潟市に移り住んでおり、家族で参加した。6歳の長男が電車が好きで、新潟でも電車が見られるところを探し、かぼちゃ電車を見つけた。すでに何度か見学に来ている。
夏の暑いときに保存会が修理、メンテナンスする姿に心を打たれた。「人の思いってすごいなと。仕事でやってるわけじゃないし、ただ電車が好きでこれを残していきたいっていう思いだけでやってらっしゃる」。地元にゆかりはないのに涙が出るほど感動した。
「人の思いつながれていくっていうのは素敵だなと思って。子どもが電車を好きになって、私も好きになって。それまではただの交通手段だったのに、こんなに素敵な夢があるものなのかと思った」とわくわくしながら電車に乗り込んだ。
乗車体験後は「感動しました。夢をのせて走るんだなって思った。保存会の皆さんの努力でこういうことにつながってると思う。23年ぶりに時が動き出したようで、とても貴重な経験をさせていただいて楽しかった」と声を弾ませた。
小遣いをためて乗ったかぼちゃ電車が動き出してうるっと
三条市出身の団体職員早川亮介さん(42)=新潟市秋葉区=は、小学生のころに小遣いをためて路面電車に乗ろうと友だちを誘って年に何回か、かぼちゃ電車などローカル線に乗るようになった。「電車が動き出したときは、うるっときました」。
新潟電鉄の最終運行日は大学に入学して説明会の日にあたったため、かぼちゃ電車の最後の姿を見ることはできなかった。旧月潟駅に保存されたかぼちゃ電車も時々、見学に来る。再び動き出したかぼちゃ電車を見詰め、「いろいろ思い出した。路面電車に乗ってお昼は青山のジャスコでイタリアンを食べるみたいな」と当時は思い出を重ねていた。
静態保存されている電車が動くのは会員のメンテのおかげ
撮り、乗り、模型の鉄道ファンの男子高校生(17)=新潟市中央区の=は、初めて旧月潟駅を訪れた。「別にこんなん撮ってもみたいな感じ。せっかく動くなら暇だし、来てみようかなみたいな」と高をくくっていたが、「よく動くなと思いますね。本当に。ずっと静態保存されていたものをこうやって動力源こそ違えど動くってことは。今までこうやって長期的にメンテナンスしていたおかげと思う」と感心していた。
一番列車の運手にがちがちに緊張
一番列車の運転士の大役を務めたのは、かぼちゃ電車保存会元会長の会社員丸山裕(ひろし)さん(49)=新潟市西区=。最終運行を見届けたかぼちゃ電車の運転席に23年たった今、自分が座った。営業運行ではないとはいえ、端からもはっきりわかるほどガチガチに緊張し、興奮して落ち着かなかった。
またかぼちゃ電車が走るイベントをやりたい
出発前は「ギャラリーが多いのでちょっと怖いですね」。無事に運転を終えてかぼちゃ電車を降りた丸山さんは「緊張しました」。折り返し後の停車は予定より手前に止まり、「停止、早すぎた」と苦笑いしたが、ほかの会員たちから拍手が上がって照れていた。
会長の平田翼さん(30)=新潟市南区=は「発車したあとみんなが拍手して喜んでくれて。それがすごくうれしかった」と笑顔。「お客さんたちの喜んでくれる声を力に変えて来年度以降、またこういう走るイベントとかもやっていけたらと思う」と話していた。
燕市の捧武さんをはじめ一番列車に乗車した4人の遺影に敬礼
また、かぼちゃ電車の保存に尽力した4人の遺影も載せた。そのうちのひとりは電鉄の風景を撮影した写真集『電鉄浪漫』を廃線の1999年に出版して話題を呼んだ燕市の写真家、捧武さん(1933-2010)。一番列車の運行が終わると、遺影に向かって運転士の2人の会員が敬礼した。