「100歳のやすりの目立て職人」として勇退することを決めた新潟県燕市の町工場、有限会社柄沢ヤスリ(柄沢良子代表取締役)で働く岡部キンさん(99)。100歳を前に17日、鈴木力燕市長から岡部さんに「つばめ輝く女性特別功労賞」を贈って長年の偉業をたたえた。
岡部さんはこの日もふだん通りに勤務。鈴木市長は職場を訪問し、岡部さんから仕事の手を休めてもらって表彰状と記念品を贈った。
記念品は地元の鎚起(ついき)銅器メーカー「玉川堂」にあつらえた岡部さんの生まれ年のえとのイノシシをデザインした鎚起銅器のビールカップ。今も毎晩、ビールで晩酌をする岡部さん。もっとビールをおいしく味わってもらおうという趣向だ。
鈴木市長が「本当に長年、お疲れさまでした」と手渡すと岡部さんは小さな体を折って「ありがとうございます」と受け取った。
岡部さんの指導で鈴木市長も目立て作業を体験した。鈴木市長が着けるエプロンのひもを岡部さんが結んであげ、鈴木市長に目立て機の前に座ってもらった。
岡部さんは「溝になってるでしょ?ここに入れて」、「こっちの足を離して。こっちは踏んでたかね?」と手取足取りの指導。鈴木市長は自分で目立てしたやすりに「どうですか先生?」と岡部さんの評価を聞いた。
岡部さんは「うんうんうんうん。ばかきれいに切った」、「両端がきれいに入ったもん。最初らがんね。いいですよ」、「自分で切ったのだとやっぱりうれしいでしょ?」とにっこり。「もう一本、切られたら切ってもいいですよ」に鈴木市長は「今、ほめられて気分のいいところでやめた方が」と笑わせた。
岡部さんは燕市が2016年度に創設した「つばめ輝く女性表彰」の第1回の「つばめ輝く女性賞」の受賞者でもある。今回の特別功労賞は岡部さんの勇退をたたえようと新設した。
鈴木市長は「今まで女性のロールモデルとして産業界で活躍され、その引退にあたってご苦労さまでした、ありがとうございましたという感謝の気持ちを贈りたい」と言い、「そもそも百歳で体が不自由な方は多いが、しっかり仕事までされ、目を使う仕事にもかかわらず現役で百歳まで働かれたのはすごい人だなと。多くの職員に勇気を与えてくれる偉大な人」と称賛した。
岡部さんは1923年(大正12)5月4日、長岡市に生まれた。結婚して燕市に移り住み、子育てが一段落して夫の実家のやすり工場で働いた。しかしその工場が畳むと腕を買われて、1962年(昭和37)11月1日に柄沢ヤスリに就職。それからちょうど60年を少し超えた。
燕市は戦前、やすりの一大産地だったが、その後は激減するなかで生き残った柄沢ヤスリ。ここ30年ほどは、つめやすりで順調に業績を伸ばしている。そのなかでも近年、人気なのが柄沢さんが90歳にして新商品開発に携わって2013年に完成した「シャイニー」シリーズ。柄沢さんでしかできない高度な目立ての技術があって初めて製造が可能になった。
この1年で柄沢さんが「シャイニー」を1万本、目立てしてストックがあるし、技術承継で後継者も養成しているので、柄沢さんの退職後も製造が絶えることはない。
100歳の誕生日の5月4日は祝日なので、大型連休明けの8日を最後の出勤日にする。代表取締役の柄沢良子さん(67)は「99歳のまま終わるのちょっともったいないので、5月8日に来ていただいて正真正銘の100歳の職人ということで、最後の日を迎えたい」。岡部さんは「百歳のやすり目立て職人」となって現場を退く。
13年前に高校教師から転身した柄沢さん。「岡部さんは私が小学1校年生のときにランドセルをしょってふてくされていたのを覚えている」。岡部さんは「わが社の大黒柱」。「社員は彼女がつないできた技術のうえに彼女に追いつき、追い越せとやってきている」と柄沢さんは話す。
社長に就いた柄沢さんに「岡部さんがもう少し私の手伝いをしたいと言って働き続けてくれた。そのときに今までうちにない新しいやすりを作ろうと、シャイニーシリーズをつくった。あのヒットは彼女なくしてはなかった」。
とにかくまじめで集中力は若い社員にも負けない。負けず嫌いで「ほかの人が1日に500本、切ったって言うと、あしたは600本、切ってやるという職人魂でやってきた」。語らずとも岡部さんの背中が若い社員の手本になった。
デパートから目立てが鋭く切れ過ぎるので、もう少し切れないやすりにしてほしいと要望があった。柄沢さんが岡部さんにそう頼むと、岡部さんにきっぱり断られた。「いやです。私はシャイニーシリーズでも納得していない。私の切ったやすりが削れないなんて言われるのは絶対に許せない、と言われた」。そこだけは譲れない。職人かたぎそのもだ。
柄沢さんは「いつ彼女が引退と言い出すか、どきどきしてた」と、岡部さんが95歳のころからもう少し、もう少しと、心のなかで働き続けてほしいと祈っていた。岡部さんが初めて引退という言葉を口にしたのは99歳になってから。柄沢さんの後継者の求人を出すからと1年、引退を待ってもらった。
「勇退には彼女がいるだけで会社が引き締まりますので、それがなくなると、ちょっと心配なところがあります」と心細さも感じる。
そんな柄沢さんに岡部さんは「よく頑張ってきましたこてね」と子どもをほめるようにねぎらう一方で、柄沢さんに「こうして助けてもらいました」と感謝を忘れない。
岡部さんは生まれつき体が丈夫で「勉強はできないけど、それでも体操だったり、運動会だったりになるとね」。子どもとは今も「言うたりこいたりして、けんかしてます」。
1945年(昭和20)の長岡空襲を生き延びた。「屋根に焼夷弾(しょういだん)が落ちてきた」。今も長岡花火の音を聞くと当時を思い出していやな気分になることがある。
「空襲は怖いというだけけしか頭にねーかったですわね。そっれも、なんとかかんとかして終わったっすけ、こうして長生きできた」と大正から4つの元号を生き抜いた人生に感謝している。