「越後平野初の古墳時代前期の首長居館の遺跡か」。新潟県内で初めて古墳時代前期(3世紀後半から4世紀)の方形区画遺構が見つかった新潟県燕市の石港(いしみなと)遺跡の第2回現地説明会が11日開かれた。105人が参加し、石港遺跡が伝える1,700年前の政治や交易の要衝だった時代に思いをはせた。
石港遺跡は燕市分水地区の渡部地内、信濃川大河津分水路右岸に位置する古墳時代(1,700〜1,500年前)の遺跡。河川敷に南北約230メートル、東西約350メートルにわたって遺跡が広がる。
大河津分水路の改修事業に伴う低水路掘削工事に先立って2022年度から発掘調査が行われている。付近にある前方後方墳と推定される竹が花(たけがはな)遺跡との関係や、古墳時代の暮らしに迫る手掛かりが期待される。
遺跡から東にある「夕暮れの岡」の西すそでは、古墳時代の土器が出土し、1934年(昭和9)に市民が子持勾玉(こもちまがたま)を採集している。
子持勾玉は、勾玉の背や腹、側面に子勾玉を付けた形状をしたもの。縄文時代以降にまつりに使われた装身具と考えられる。今回の調査でも昨年、子持勾玉が出土した。県内での出土は十数例しかなく、しかも発掘調査で発見された例はさらに少なく、関係者を驚かせた。
今回の調査では、古墳時代後期の大型建物などが見つかっていたが、今年度は新たに古墳時代前期の集落を囲う溝や集落内を方形に区画する「方形区画遺構」や多くの土器や玉製品が見つかった。
方形区画遺構は、南北21m以上、東西48m以上、それと南北12m、東西10m以上の2つが見つかっている。区画は掘られた溝からわかり、溝には板塀や柱を設置したと推測される痕跡が認められた。
50mくらいは囲いをしていたと思われ、これまでの調査例からすると、その地域のリーダー役の有力者の屋敷地「首長居館(しゅちょうきょかん)」と呼ぶことが多い。その根拠として「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」にある邪馬台国の女王、卑弥呼の居所にも城柵を厳しく設けていると記述されていることを引き合いに出した。
近くに寺泊港があり、渡部は北陸道の終着点。信濃川で舟で物資を運ぶこともできた。その3つが交わる場所にあり、「そういった交通路をうまく使うために、核となるような集落がここにつくられた可能性がいちばん高い。それを端的に示すのが、方形区画という囲いがここに作られていたということと考えられる」と調査担当者は話していた。
出土品は古墳時代中・後期を中心に前期から後期にかけての遺物が中心で、土師(はじ)器をはじめ、須恵器、石製品、木製品、子持勾玉のほか、糸をつむぐ紡錘車(ぼうすいしゃ)も見つかっている。
調査現場では担当者から遺構や遺物が見つかった経緯とともに、それらから推測される当時のようすを聞いていた。