引っ越しを機に輝かしい戦歴の証しであるトロフィーなどをふるさとに寄付したいと、新潟県燕市(旧吉田町)出身のマラソンのオリンピアンで燕市PR大使の宇佐美彰朗さん(81)=東京都狛江市=は3日、燕市にトロフィー22とカップ、盾、表彰盾を1つずつの計25点を寄付した。燕市ではこれらを市内すべての小中学校に1点ずつ飾り、子どもたちがスポーツにチャレンジするきっかけにしてもらう。
宇佐美さんは吉田中学校でバスケットボール、巻高校でテニスに取り組み、日本大学へ進学してから本格的に陸上競技を始めた。大学2年のときに箱根駅伝の4区で3位、翌年は9区で区間新記録をマークした。
初マラソンは1964年の中日マラソンで11位。68年にメキシコ五輪の代表選考会を兼ねた毎日マラソンで優勝し、メキシコ五輪に出場して9位。その後も72年ミュンヘン五輪で12位、76年のモントリオール五輪で32位と、3度の五輪出場を果たしたオリンピアンだ。
70年の国際マラソンでは、当時の世界歴代3位でもある2時間10分37秒8の日本最高記録を樹立して優勝。宗茂さんが78年の別府大分毎日マラソンで2時間09分05秒6で更新するまで7年に8年にわたり日本記録保持者だった。2018年に燕市PR大使に就任し、燕さくらマラソン大会のPRアンバサダーも務める。近年は体調を崩しながら指導者として活躍している。
今回は、寄付したトロフィーなどは市内14小学校と5中学校すべてに1点ずつ飾り、ほかは市の施設に展示する。3日は燕市役所市長室を訪れ、鈴木力市長に目録を手渡した。市長室にはメキシコ五輪の日本代表に決まった1968年毎日マラソンの優勝トロフィーも手渡した。宇佐美さんにとってマラソン初優勝のトロフィーでもある。
返礼に鈴木市長から感謝状を受けた宇佐美さんは「こんなのまでいただいてもったいない」と恐縮した。当時のレースを「どうしたことか、いちばんで帰ってきちゃった。本当に名だたる先輩たちが出て終盤、あと7kmの給水のやり方がわからなくて、下手に足がからんだりしたらばからしいな、申し訳ないなと、グループのいちばん前へふ〜っと出て行って、ほいで自分の給水を取ったら足音が周りになくなった」と宇佐美さん。
「ただ先輩たちに終盤まで連れてってもらってチャンスがあったらしいから前へ出たらいちばん先にゴールした。そんなのから始まり、大会ごとのそんな調子でやった」ときのうのことのように話した。
ほこりをかぶったトロフィーなどは、外注に出さずに職員が手作業で磨いた。宇佐美さんは「手入れもしなくて申し訳ない。きれいになって良かった」と感謝。鈴木市長も「まさにこの子どもたちがスポーツにチャレンジするきっかけになるように、それぞれの学校に飾らせていただく」と感謝した。
このあと宇佐美さんの訪問を希望した燕北中学校に日本新記録を樹立した1970年の国際マラソン優勝のトロフィー、母校吉田中学校に1965年の日比野賞中日名古屋マラソン大会3位の盾を持参し、短い講演を行った。
宇佐美さんは体育館に集まった生徒を前に「人の頑張りは、脇から見たら頑張っている生徒だな、頑張っている人だなと周りが見て評価するのであって、自分自身が自分のことを勝手に決めない。ぜひそこのところをこれから勉強に学校生活に生かしてもらいたい」。
さらに「たかが走ること、されど走ること。ぜひこれから面白い楽しい学校生活になるように。自分がやらなければ誰もやってくれない」などとアドバイスしてエールを送った。最後に「トロフィーを預かっていただいてありがとうございます」と教職員や生徒に感謝した。