新潟県燕市でキッチン雑貨やカトラリーを手がける株式会社青芳(青柳修次代表取締役社長・燕市小池)の創業者で代表取締役会長だった青柳芳郎さんが4日夜、98歳で死去した。ことし1月にも株式会社曙産業(大山剛代表取締役社長・燕市南1)取締役会長だった大山治郎さんが91歳で死去。戦後に起業し、高度経済成長期とともに燕が急成長を遂げた時代を知る証人が相次いで鬼籍に入り、燕の経済界の大きな節目の年となった。
青柳さんは経営者として手腕をふるう一方、社会貢献にも力を尽くしたことで知られる。業界人としては日本金属洋食器工業の理事長を1990年から10年間、務めた。
長女がポリオ(小児まひ)で障がい者になり、社会福祉に関心をもった。2016年まで17年にわたり燕市社会福祉協議会の会長に就いた。
1972年に設立された燕市肢体不自由児父母の会の会長に選出された。その上部団体となる新潟県肢体不自由児父母の会の会長も2015年まで11年間、務めた。ほかにも燕給食センター理事長、新潟県障害者スポーツ協会会長も務め、7つほど団体の役職に就いたこともある。
障がい者も使いやすい洋食器をと1990年代初め、柄に形状記憶ポリマーを使ったカトラリーを開発した。形状記憶ポリマーは、湯で温めると柔らかくなって自由に形を変えることができ、水で冷やすとそのままの形状で固くなり、自分がいちばん使いやすい形にカスタマイズできる。
国内のユニバーサルデザインのカトラリーの先駆けとなり、今では福祉用品ブランド「Willassist」としてアイテムを増やしている。高齢者にも使いやすいカトラリーとして注目が高まり、青芳を特徴づけるブランドに成長した。
燕の業界もそうだったように、経営は順調なときばかりではなかった。青柳さんはさまざまな役職に就いているため会社を離れていることが多く、その間は長男で社長の修次さん(62)が陣頭に立って会社を動かした。
「ドルショック、オイルショック、ニクソンショック。ジェットコースターのようで大変だった」と修次さんは、今となっては笑い話のように振り返る。「なんでこんなことをやるだんろうと思った」、「おれと同じことをしろと言われてもできない」。青柳さんの教えは厳しかった。
新潟県の自殺率の高さに衝撃を受けた修次さんは、2021年に「フードバンクつばめ」を設立した。昨年10月には私財も投じて燕市燕地区の商店街に拠点施設と子育て相談室、こども食堂を開設した。父の背中を見て育った修次さんは、教えられずとも社会貢献の意識を継承している。
青柳さんは、晩年は旅行や美術館めぐりが趣味だった。70代、80代は毎月のように夫婦で京都、奈良、鎌倉などへ出掛け、90歳まで車を運転した。「幸せな人生だったと思う」と修次さんは父を見上げている。