2004年の「平成16年7月新潟・福島豪雨」で7.13水害に見舞われてからことしで20年の節目。9人が犠牲になった新潟県三条市は毎年、13日に五十嵐川の堤防が決壊地点に建設された五十嵐川水害復興記念公園(諏訪1)で毎年、黙とうと献花を行っているが、ことしはそれに加えて市内全域で破堤時刻にサイレンを鳴らし、献花式、写真パネルと映像の展示も行って犠牲者を追悼し、災害に強いまちづくりを誓った。
毎年7月13日は、五十嵐川水害復興記念公園の慰霊の碑の前に献花台を設置し、市長らが黙とうし、あいさつはなく献花を手向けていた。
ことしは20回の節目で、来賓に花角英世知事や国会議員、県会議員など約40人を迎え、それぞれあいさつ。市民20人ほども参列した。
あわせて当時の水害の被害状況や避難所、仮設住宅、通りを埋め尽くす水害ごみなどの記録を撮影した写真パネル45点と約6分間の記録映像を展示。これらは今後の防災教育にも役立てる。
閉式後、滝沢亮市長は報道陣の取材に対し、この20年間の復旧、復興に努めた人たちに感謝し、「これが決してゴール、区切りという意味ではなく、この式典を一気にさらにもう一段、災害に強いまちづくりをしていきたい」と決意を話した。
三条市では全国的にも早く線状降水帯の被害を受けたが、「市民と一緒に多くの人たちの力を借りて防災に強いまちづくりができた」と感謝。災害の経験を伝えるために、多くの学校でさまざまな防災教育を行っており、「さまざまな教育だったり、きょうの式典も含めて、これを決して風化させてはならないんだというメッセージを出し続けていきたい」と話した。
一方、前三条市長の国定勇人衆院議員は当時、三条市の総務部参事兼情報政策課長として災害対応に当たり、三条市長となってからはハード、ソフトの両面で災害に強いまちづくりに力を尽くした。
その取り組みは2011年に発生した「平成23年7月新潟・福島豪雨」による7.29水害で実を結んだ。7.13水害の2倍もの雨量を記録しながら、被害を大幅に軽減させてみせた。
国定氏は「今から考えてみると、本当にあのとき起こったことが、今の三条市のすべての始まりでもあったのかなと思う」と感慨深く振り返った。
しかし「本当に一人ひとりの気持ちのなかに災害に対する備えというものがしっかりと根付いてるのかということは、この20年という節目を迎えたきょう、あらためて一人ひとり考えるべき日なんだと思う。私たち一人ひとりが考えることが当時、亡くなられた方への最大の祈りの行為と思う。私自身も立場は変わったが、引き続き三条市の災害に強いまちづくりのために支援をしていきたい」と述べた。
滝沢市長の式辞と来賓のあいさつの概要は次の通り。
9人が犠牲になった三条市は7.13水害の経験を教訓に国交省、新潟県と協力して防災減災対策に取り組んだ結果、7.13水害からわずか7年後、7.13水害をはるかに超える雨量だった2011年の7.29水害は被害を大幅に抑えることができた。
しかしさらにそれを上回る豪雨が全国で発生している。歳月の経過で防災意識の希薄化や災害対応の経験値の喪失が懸念されている。子どもたちの防災教育、防災訓練での中学生ボランティアの取り組み、三条市立大学生を中心とした学生消防隊による消防団活動などの活動を通じてしっかりと継承し、市民とともに防災に対する意識を高めている。
防災対策に終わりはない。常日ごろからの備えや、防災への意識を高めていくことがとても大切だ。私たち三条市は、水害をはじめとする災害による犠牲者を二度と出さないという強い決意のもと、災害に強いまちづくりの実現に向けて取り組んいく
全国では線状降水帯や台風などによる豪雨災害も繰り返し発生している。災害をこの身をもって経験したことで得た知恵や備えを日々の生活に生かし、2度とあのような犠牲を出さないことが私たちの使命だ。
いざ災害に直面したとき、何よりも心の支えになるのは近所や地域コミュニティーの共助。自分の命は自分で守る。そのうえで声をかけあい、避難の難しい人を助ける。助けが来ると信じられる関係性が、命を守るよりどころとなる。そういった関係性を平常時から築いていくことをはじめとした自主防災の意識がこの式典の開催を契機にさらに醸成されることを願う。
県では甚大な被害が生じた五十嵐川の安全を確保できるよう、河道改修や遊水地の設置、笠堀ダムのかさ上げなどの抜本的な治水対策に取り組んできた。全国各地で自然災害が激甚化、頻発化しており、一昨年は下越地方を中心に記録的な水害、ことしは能登半島地震による災害が発生した。
こうした災害に万全の備えをして県民が安心して安全に暮らせるように全力で取り組むとともに、三条地域が水害の教訓を引き続き継承し、安全で住みやすい、魅力あるまちへとさらに発展することを心から願っている。
当時、被災現場を訪れて、一帯が濁流に飲まれて住宅の2階から必死に助けを求める人、救命ボートで助けを待つ人がいたことが今でも深く胸に残っている。当時は1年生議員で必死になってとにかく1日も早く激甚災害に指定をしてもらい、十分な国費での復旧復興、生活者の再建のために国として全力を挙げてほしいということを国会でも強く求めた。
小泉総理も当時、いち早く現地に入っていただき、力強い支援を約束してくれたのが、きのうのことのように記憶に残っている。本当に大変な災害だったが、この災害に屈することなく三条市民が力強く立ち上がり、立派なまちの復興を遂げられたことを本当に誇らしく、関係者の努力、尽力に心から敬意を表したい。
二度と、あのような災害を繰り返してはならない。これが、きょうここに集われた皆さまに共通する思いと思う。今、上流域では、例えば大河津分水の令和の大改修、下流域は信濃川、中ノ口川の河川堤防の強化、改修といった事業が行われているが、これら予算の確保を含めて、災害に強い県土づくり、国土づくりに全力を尽くすことを犠牲者の皆さまの前であらためて誓う。
外見上は復旧、復興が進んだと言われるが、そのときに負ったさまざまな心の傷は、決していやされることはないと思う。7.13水害のあと、三条市の総合防災アドバイザーに就任してもらった東京大学大学院の片田敏孝情報学環特任教授が、水害が起きてから20年で、そのまちがどれだけの歩みを続けてきたかがよくわかると話していた。
この20年というサイクルで、7.13水害のことを忘却の彼方に人々が忘れさせてしまうのか、そうではなく日ごろからの積み重ねの結果、一人ひとりの気持ちのなかに、常に災害に対する備えが意識をせずとも身に付き、それが文化となって昇華をしていくのか。ここが非常に大きなわかれどころだと片田先生は幾度となく言われた。
果たして私たち三条市民は、この20年で、この防災を文化として昇華しきることができたのか。そのことに思いをいたす日が、きょう20年という節目を迎えた7月13日。私たち一人ひとりが振り返りをもたなければならない。
これまで多くの人の協力でハード、ソフトの進行が不断の努力で進むことができたことを長く市長として携わってきた私からもあらためて再度、お礼を申し上げる。
遺族の気持ちは20年たってもいかばかりかと察し、お見舞いを申し上げる。この20年で三条市、新潟県、国土交通省をはじめ多くの人の尽力で、こうして直後の救援から復旧、復興に至るまで、きょうの日を迎えるまでの尽力に私からも感謝を申し上げる。
自助、共助、公助、まずは自助、自己責任を強調するようなそんな政治ではなく、高齢化も進み、支援を必要とされる人も増えるなかで、しっかりと手当てを考えていくことが政治の場に身を置く者の責任だとあらためてしっかりと受け止めている。
無念のうえに亡くなられた皆さまの気持ちを思うとき、あらためてこのような水害を絶対に起こしてはならないとの思いを強くする。きょうここにいる皆さま全員で力を合わせて、災害に強いまちづくりにこれからも力を合わせ、努力を重ねていくことをあらためて誓う。
7.13水害のときは国土交通省の災害担当の責任者だった。3日ほどしてから当時の北側国交相とヘリコプターで来た。大変な災害で以来、いくつか制度は改正してきた。総合治水という考え方を前に出してやってきたのはそれ以来。国土の強靱化と県土の強靭化で、防災減災、国土強靱化を表に出して法律にした。
しかし、まだまだこれから。そして何よりも遺族の皆さまなどに心からのお見舞いを申し上げ、2度と起こさないということを誓いたい。