6月に新潟県三条市で開かれる伝統行事「三条凧(いか)合戦」の強豪チーム、1925年(大正14)発足の「東三条五月会」は17日、創立100周年記念祝賀会を開いた。三条凧協会のほかの凧組も含め約100人が参加して100年の節目を祝った。20歳で東三条五月会に加入して戦後の東三条五月会を盛り上げたいわば中興の祖、会長の丸山俊雄さん(65)=三条市東三条1=に話を聞いた。
ーーなぜ100周記念祝賀会を開くことになったんですか
先輩方から、100周年やろうという話が起こったときに、どうやったらできるって言うんで、若手にも相談したら、やろう、やろうと。それで80周年やってるんですけれども、もうみんなどうやったか忘れてるし。でも100周年だからというのと、ひとつは2年前の10連覇。その年にやろうと思ってたんですけど結局は、いろんな行事があったりしてできなかった。
そしたら昨年、負けちゃったし。ことしは最高得点優勝で優勝旗あるし、ことしならできるだろうと。本当は来年がちょうど100年なんだけど、来年だと結局、秋の合戦まで祝賀会をできないんですよね。先輩諸氏は早くやろう、早くやろうと、1年、前倒しにしました。
ーー100年前の三条凧合戦は盛大だったんでしょうね
いや本当に古い写真が残ってるんですけど、私たちのお父さんの代じゃなくて、その上のおじいちゃんの代になるんですよね。生きていれば100歳とか120歳とか。そういう方々なんで。東三条の町内のなかで、ガキ大将なのか、そういう好きな親父がいっぱいいて始めたんだろうと思うんですね。昔の写真を見ると凧もでかいし、すごかった。
それともうひとつ、私たちは真ん中が開いてるんですよ。46年前に田辺繁さんと藤島博さんが話し合って、もう1回、東三条五月会を再開しようと。もちろん戦時中は中止になってるんでしょうけれども、そういうのもあって、一時中断してるときもありました。そんななかで声をかけた2人が仲間を呼び、そのとき私は東京にいたのでわからなかったんですが、帰って来たら、おい、俊雄、来いと言われてずるずると。東京から帰った20歳から。
それで五月会は、お酒呑んべがいっぱいいて、凧の修理のときに一升瓶を割ったことあるんですよ。そしたら俊雄が一升瓶を割った、俊雄が一升瓶を割ったと、それこそ30年も言われて続けて。でもちゃんとそのときに1本割ったから言って、うちの父が2本、持っていったんだけど、逆にそれが丸山俊雄がエリートコースじゃないけど、常に、それマルチョー(丸山さんが経営する店)がやれ、マルチョーがやれと言われるようになって。いい思い出もいっぱいあるし、結局、今はもう子どもたち、私のせがれも入ってますけど、あとはもう、いっぱい仲間を呼んでやってるところです。
ーー東三条五月会の強さの秘密は
とりあえずはことし勝ったので、やっぱり来年、勝つために要は、まだ若手も荒削りなんですよ。技術と凧の調整、それから風を読む、このときは引っ張るのか、糸を出すのかっていうのが、まだ若手がまねできない。俺に任せれとか言うんだけど、若手はそれができない。でも、そういうところをちょっとずつ、角を取っておけばおそらく、勝ち勝ち続ける組になると思っています。
担当、担当がいる。修理する、調整する、それからやはり揚げ師、そして引っ張る。1人だけ全部ができても結局はだめなので、やっぱり部署、部署で頑張らなければなりません。藤島弘揚げ師だってもう73歳ですから、先頭に立って揚げれったって無理です。
去年は負けましたが、藤島弘は揚げさせてないんです。私は会長なんだけども、若手が技術を覚えないとだめ。だから10連覇したから、11連覇やるよりは次の10連覇を目指すために若手に揚げさせてくれって言って直談判しました。藤島弘もよし、若手に揚げさせようと言ってくれました。それでことし勝ったし、もう来年もとりあえずは凧の保有枚数もあるし、そういうふうな部分では勝ってくれるかなと思ってます。