燕駅の1番線と2番線の線路がある写真を提供
前回の藤井大輔&芳輔の鉄道コラム「鐵道双見」で藤井芳輔さんが「開業90周年の燕駅の歴史を探訪、刻み込まれた往時の記憶、電鉄線の痕跡も確認」を書いた。
このなかで芳輔さんは、1番線と2番線の間にある隙間に注目。普通は隙間なく4本のレールが並ぶのだが、不自然に隙間が広いことから、かつては1番線と2番線の間に線路があったはずと推理した。ネットで実際に1番線と2番線の間にレールがある写真を見つけたものの、著作権があるため掲載できなかった。
1番線と2番線の間に不自然なすき間が(藤井芳輔さん撮影)
そんな折、東京都杉並区に住む松永貞吉さんからメールをいただいた。松永さんは昭和35年ころまで三条市に住んでいた。これまで書籍などさまざまなメディアに郷土で撮影した古い写真を提供している。
当時の線路が残る写真を撮影、保存しており、必要なら送っていただけるとのこと。さっそく電話すると翌日、写真が届いた。写真には新潟電鉄のレールとJRのレールが交わる渡り線の存在を確認できる。「かぼちゃ電車」の名で親しまれた新潟電鉄の3両の電車が連結されたものでなく、3両が一緒に見られるのは珍しいと言う。
東京ドームになる前の後楽園球場や三条市の五十嵐川と常盤橋を撮った写真を含め、あわせて撮影の時期や背景について書かれた手紙を同封いただいたので、松永さんの了解をいただいてその抜粋とともに以下の通り掲載する。
松永さんからの手紙の文面
さて、本日、たまたまインターネット上で郷里のニュースを見ているうちに、偶然、お隣・燕市の燕駅舎に関連する記事を読み、小生も通去に撮った同駅の写真を所有しており、早速お知らせしてみた次第です。
その際、早速お電話を頂戴し有難うございました。
以下は、そのお電話の際の写真について、少々ご説明申し上げます。
現在では既に廃線となり、新潟交通の電車を見ることは出来ませんが、小生が郷里・三条に出向いた折に、燕まで足を延ぱし撮った写真に、藤井芳輔様が疑問にお感じになった1番線と2番線の間にあったと思われるレールを撮った記憶があり、本日お知らせいたしました。
お電話の後で、そのネガを探し業者に出してブリントしてみました。
小生の記憶の通り、燕駅の1番線と2番線の間にもレールがあり、更に国鉄の3本のレールの左隣には、新潟交通のレールが延びて「渡り線」になり、両線が交わっていました。これにお気付きの方は少ないかと思います。そして双方にはそれぞれの電車が停車しています。
もう一枚の写真も燕駅での写真です。
こちらは、新潟交通のタイプの異なる車両が3両こちら向きに並んでいます。更に左側にも尚余裕のレールがあったようです。
この3両はご覧の通り、連結された車両ではありません。最後の1枚は、燕駅を出た直後のカーブの地点で撮彰したものです。
人家スレスレといった盛じですが、カーブでもあり軋んだ音も聞かれたと思います。
この3枚の写真は、昭和60年4月28日と29日の2日問にわたって撮ったうちの、3枚です。
ついでに、その翌々日の5月1日、東京の後楽園球場でのプロ野球、巨人阪神戦の模様を、外野より撮った写真もありましたので、1枚同封してみました。
もちろん今ではドーム球場になり、このような光景は見ることが出来ず、この写真も記録写真?の1枚になるかと思います。丁度27年前のこの日の撮影です。
本日もお電話てお話ししましたが、小生は昭和35年頃まで、三条市内におりました関係で昭和27年頃より35年頃までは、市内の写真も何枚かはカメラに納めて来ました。(この頃は全てモノクロで6×6判です)
その中より、お電話でお話ししました写真を1枚コピーしてみました。
五十嵐川と常盤橋を撮ったもので、昭和27年頃、当時の郵便局の煙突に昇って撮った写真です。もちろん、無断侵入で違法行為ですが、その建物も現在では存在せず、時効かと思います。当時、この高さから撮影できる場所は市内にはありませんでした。
この写真は、三条市は発行の郷土記録誌「ふるさと三条」の第19号、88ページに載っています。
また、平成18年4月16日発行の「広報さんじょう」の1ページにも、翌28年頃撮影の五十嵐川と「金物の三条」のネオン塔(その先には、弥彦山も薄く見えるのですが)の写真が、掲載されています。この場所でのネオン塔は、信越線の列車の車窓から良く見えるもので、三条ではまだネオンそのものが珍しい頃でした。
尚、新潟交通の写真の一部は、いき出版発行の写真集「県央の昭和」に掲栽されています・その他、郷土出版社の「三条加茂今昔写真集」にも、東別院の「花祭り」のパレードに本物の象が参加した写真等、他の写真数枚も載っています。
(文 松永貞吉)