三条市に2年間勤務して今春、佐賀県武雄市に戻った池田修一君、燕市に2年間勤務して同じく総務省へ戻った岡本泰輔君について6回にわたって書いたが、今春まで燕市教育長を2年9カ月務めた藤沢健一さん(53)について“番外”という扱いで申し訳ないが一言、書いておきたい。
教育長は教員が定年退職後に就任するのがふつうだ。それゆえ、教員の天下り先と揶揄されることもある。しかし藤沢さんは異例の現役の教員。教員を退職せずに、割愛で教育長に就任した。おまけに若くてイケメンだ。本宮ひろしの漫画の主人公だと勝手に思っている。しかし気取ったところはまったくなく、いつも笑顔で軽い(失礼)くらいのイメージだったが、それはあくまでも表面上だった。
教員の前で講師を務めたときは、きっちりと頭の中に入れてきたデータや数字がすらすらと口から出た。話の起承転結も巧みで、ちょっと刺激的な結論を先に言って、それおフックにして聞いている人を引きつける。言葉を吟味して記憶に残るような表現も見事で、説得力が見事だ。
仕事では鈴木力市長と二人三脚で、教育行政を強力に前進させた。鈴木市長から与えられたミッションもあったのだろう。学力向上のために市内全小学校で燕長善タイムを実施、「つばめっ子かるた」の製作や燕ジュニア検定の実施と、限られた任期のなかで次々と画期的な施策に取り組んだ。鈴木市長も藤沢さんには全幅の信頼を置いていたと思う。
藤沢さんは自分の写真を撮られたい派(?)だが、昨年7月の燕市・飛燕夏祭まつりで、ことのほか写真を撮ってほしいと頼まれた。戸隠神社を背景に背中に大きく“燕”とあるはっぴを着た藤沢さん。写真を撮るとエピソードを話してくれた。
東京に住んでいたんだった思うが、お母さんが戦時中、燕市に疎開し、その後、新潟市へ移った。お母さんは藤沢さんが教育長に就いて間もなく亡くなったが、藤沢さんが燕市の教育長になったことに当時につながる縁を感じ、泣いて喜んでくれたと言う。立ち話だったので、あとで詳しくその話を聞かせてほしいと頼んだが結局、うかがう機会がなかった。鈴木市長も当初、そのエピソードを知らず、藤沢さんが教育長に就任してから知ったと言う。
藤沢さんは教育長を辞める直前に行った講演で、2005年に開校した燕中等教育学校にその前年、当時の教頭に中等教育型にすると電話したのが自身だったことを明かした。学校名を考え、第1回の入学式にも高等学校教育課から応援に向かった。ここでも燕市との縁を感じ、燕市教育長に就いたのは必然だったように思えてくる。
一般に教育長には、水戸黄門の印籠ではないが、いざというときの説得や調整の“重し”としての役割が最も期待されているのではないか。能力よりも納得させられるような人格だったり、それまでの地位だったり。対して藤沢さんは実務型の仕事ができる、前に出て働く教育長。それまでの教育長像とはかけ離れていた。
藤沢さんは教育長になるまで、こんなに小中学生と直に接することはなかった。今は長岡大手高校で校長を務めるが、きっと事務仕事に退屈しているのでは。藤沢さんには燕市教育長としてまだまだアイデアややり残したことがあるはずだ。退職した暁にはぜひ再び燕市教育長として再登板を願わずにはいられない。
また、燕市・長善館に学んだ長谷川泰を敬慕する長岡市の「長谷川泰を語る会」が一昨年に出版したご当地伝記マンガ『長谷川泰ものがたり』を描いたイラストレーター、恩田周子さんが出版当時、藤沢さんが同書を高く評価してくれたことが周子さんの大きな励みになったことを、夫の富太さんが話していたことも付け加えておこう。
…続くかも