【連載/燕三条駅の40年 vol.1】藤井大輔&芳輔の鉄道コラム「鐵道双見」 (2022.12.31)

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1982年(昭和57年)11月15日。市立三条小学校の1年生だった藤井少年(筆者)は、いつもより早く起こしてもらい、真新しい燕三条駅の12番線ホームで、ワクワクしながら、白く大きな車体にモスグリーンのラインが入った新幹線「200系」が来るのを待っていた。

新幹線200系電車 出典:Wikipedia Commons
新幹線200系電車 出典:Wikipedia Commons

この日開業を迎えた上越新幹線の上り一番列車「あさひ190号」大宮行が入ってきた。かっこいいと思ったのか、何を思ったのか、憶えていない。ただ、登校前に燕三条駅まで連れてきてもらってホームで一番列車を待って見送ったことだけ、強烈に記憶に残っている。

「あれから40年」。綾小路きみまろのネタではないが、上越新幹線が開業して2022年で40年を迎えた。三条市と燕市の市境にまたがる燕三条駅も開設40年を迎えた。田んぼが広がった須頃郷に、長さおよそ500mも高さ約23mの巨大駅舎が建ち、1978年(昭和53年)9月21日に開通した「三条燕インターチェンジ」とともに、高速交通の複合結節点ができたことで“まち”が動いた。2023年は、三条総合病院と燕労災病院を再編統合した済生会新潟県央基幹病院も開院する。

どうして、燕三条駅が三条市・燕市の市境にできたのか。40年を節目として、上越新幹線の公式記録誌をひもといてみたい。

上越新幹線の原点

1964年(昭和39年)に開業した東海道新幹線は、当時の日本国有鉄道(国鉄)が、並行する東海道本線(狭軌)の列車本数を抜本的に増やすために標準軌別線を建設したものである。この成功を受けて、1969年(昭和44年)5月に佐藤栄作内閣が、新幹線やジェット機など高速交通体系の計画を盛り込んだ新全国総合開発計画(新全総)を閣議決定した。これが、上越新幹線の嚆矢(こうし)である。

この翌年、議員立法により「全国新幹線鉄道整備法」(全幹法)が公布・施行され、上越新幹線が東北新幹線、成田新幹線とともに、1971年(昭和46年)1月には全幹法に基づく基本計画、さらに整備計画がそれぞれ決まった。整備計画では、東京都〜新潟市に、概算5,800億円を投じて、設計最高速度260km/hの高速鉄道を日本鉄道建設公団が建設すると、より具体的な計画となった。

同年4月に運輸大臣(橋本登美三郎)から日本鉄道建設公団に、全幹法第8条により上越新幹線と成田新幹線の建設を指示した。つまり、上越新幹線は国鉄が自らの経営判断で建設した東海道・山陽新幹線とは異なり、全幹法によって政府が建設を指示したことから「出自」が大きく異なる。この時点では、燕三条駅の名はない。

3つのルート案

全幹法に基づく基本計画、整備計画がそれぞれ決まって、日本鉄道建設公団は3月から地質調査や線路選定を開始した。

図1 長岡〜新潟のルート案 出典:日本鉄道建設公団新潟新幹線建設局編(1983)、p.22
図1 長岡〜新潟のルート案
出典:日本鉄道建設公団新潟新幹線建設局編(1983)、p.22

A案は、降雪の少ない海岸線に沿い、国上、弥彦、角田の西蒲三山をトンネルで貫くルートで、このルートでは長岡駅ではなく、宮内駅に新幹線駅を建設しなければならないだけでなく、次のB案より距離が長くなる。B案は、現在の新幹線ルートであり、長岡〜新潟を最短距離で結べるだけでなく、三条市・燕市を中心とした新駅設置に値する駅勢圏がある。そして、C案は、35%がトンネルとなり、雪害対策では有利だが、距離がB案より長く、A案と同じように中間駅を設置するメリットがない。

この3つのルート案からいけば、「B案」を採用するのは最も理に適うといってよい。ただ、B案にも、越後平野の軟弱地盤や地盤沈下の対策が解決すべき課題として挙げられ、一筋縄では進められないが、高架橋を建設することは可能と結論づけた。

もし、A案やC案が採用されていたら。弥彦山に新幹線が通り、今はなき弥彦線大浦駅に新幹線駅ができ、東三条〜越後長沢は廃止されず、八十里越の国道289号線が只見まで早く開通していたかもしれない。ただ、C案では、大浦駅と新津市・小須戸町の境界付近との間で、新幹線駅誘致の綱引きがあったかもしれない。

「燕三条(仮称)」の登場

では、「燕三条」の名はどこで出てくるのか。日本鉄道建設公団が編纂した『上越新幹線工事誌(大宮・新潟間)』では、1971年(昭和46年)10月14日付で政府の認可を受けた「工事実施計画(その1)」の停車場名に「燕三条(仮称)」と出てくるのが初めてである。この工事実施計画(その1)の停車場の位置は下表のように記されていた。

表1 上越新幹線の停車場
名称 位置 記事
大宮 埼玉県大宮市錦町 大宮駅に併設
熊谷 埼玉県熊谷市大字熊谷 熊谷駅に併設
高崎 群馬県高崎市八島町 高崎駅に併設
上毛高原(仮称) 群馬県利根郡月夜野町大字月夜野
越後湯沢
新潟県南魚沼郡湯沢町大字湯沢 越後湯沢駅に併設
浦佐 新潟県南魚沼郡大和町大字浦佐 浦佐駅に併設
長岡 新潟県長岡市大手通 長岡駅に併設
燕三条(仮称) 新潟県三条市大字下須頃
新潟 新潟県新潟市花園 新潟駅に併設
出典:日本鉄道建設公団編(1984)、p.32

一方、田中角榮の番記者を務めた朝日新聞の早野透は、『田中角栄と「戦後」の精神』において、長岡〜新潟の新幹線駅設置について触れている。早野は、燕三条駅の源流を、田中の選挙区だった新潟三区・三条市での東三条駅特急停車運動にみる。1961年(昭和36年)に日本海縦貫線初めての特急「白鳥」が大阪〜青森で運行を開始したが、特急「白鳥」は東三条駅を通過し、長岡駅と新津駅に停車した。その翌年に運行を始めた上野〜新潟の特急「とき」も同様に東三条駅を通過した。この時代、現在の「特急」のように気軽に乗れる列車ではなく、まさに「特別な急行列車」、特急だった。

1965年(昭和40年)、三条市の商工業界の田中支持団体「嵐川会」の会長は、高野亀太郎市長、三条商工会議所会頭とともに、田中の仲介で、新潟一区選出の田中派最側近・小沢辰男に案内されて石田禮助国鉄総裁に面会した。三条側の「東三条駅に特急を停めてほしい」という陳情に、石田総裁は「三条などに停めていたら、準急になってしまう」と突っぱねたという。嵐川会会長は石田総裁に、金物卸組合400社のセールスマンが月に2回、三条から出て行くのに、そんなのもわからんから国鉄は赤字なんだと食い下がった。新駅を作ってくれと言ってるんじゃない、金物産地にちょっと停めてくれと言っているだけと言い放って引き上げた。

1971年(昭和46年)、第9回参議院議員通常選挙で、嵐川会会長は国鉄が推す全国区候補の元運輸事務次官を強烈に応援した。その6年前も同候補を全力で応援し、三条市で予想を超す大量票を獲得した。これが功を奏したのか、特急「白鳥」と「とき」は東三条駅に停まるようになっていた。この第9回の選挙は、上越新幹線のルートが決まる重要な局面にあり、6年前よりも応援に力が入ったのは間違いないだろう。

参院選の終わり、新幹線駅ができることが決まった。これが工事実施計画(その1)である。ただ、今度は駅名論争が巻き起こった。上述のように、新駅・上毛高原と同じく、「(仮称)」とカッコ書きされ、最終確定ではない駅名のまま、駅本体の建設工事が進もうとしていた。

駅名論争の裁定

さて、「燕三条(仮称)」のままだった新幹線駅について、いつ最終確定されたか。新幹線駅設置に全力で運動した嵐川会会長は「新三条駅」と心に決めていた。それに対し、南波憲厚燕市長は「新幹線のレールは三条市地内より燕市地内の方が多く走っている。『燕を上に』燕三条の仮称のまま決めよう」と豪語した。これに嵐川会会長は応戦、「新幹線駅ができたのは三条の努力なんだよ。忘れちゃ困る。レールの長短で駅名が決められてたまるか」と、新三条または三条燕が譲れぬ線だった。たしかに、新幹線のレールは三条市1,800mに対して、燕市6,700m。3倍以上もある。ただ、現在は三条市となった当時の南蒲原郡栄町(6,480m)を合わせると、三条市は8,280mとなる。

工事が進んだ1980年(昭和55年)9月、嵐川会会長はロッキード事件の被告となり公判中の田中を訪ねた。田中は「東三条とか北三条とかいうんだから、下につく名が本物で、上は飾りなのではないか」と仮称の燕三条で宥めようとした。それでも嵐川会会長は一歩も譲らず、田中も「それほどいうなら、三条燕」と三条を上にした「三条燕」を引き受けた。北陸自動車道・三条燕インターチェンジと同名である。これに嵐川会会長も納得したか、田中の許から帰条した。

しかし、その2日後、田中の事務所から嵐川会会長に一本の電話が入った。「駅名は燕三条に決めた。説明はあとだ」。これが「燕三条(仮称)」からカッコ書きの仮称が取れた瞬間である。

早野はこう見る。三条市を含む南蒲原一帯は新潟三区、一方の燕市を含む西蒲原一帯は新潟一区。その新潟一区選出の小沢辰男は、田中の最側近である。田中が小沢の頼みをどう断れようか。早野はこう締めくくっている。

一カ月後、小沢辰男が三条を訪れ、三条のお歴々と会食した時、嵐川会会長はあなたの仕業ですな」と小沢をにらんだ。小沢は「私のせいではない」と言いつつも盛んに杯を勧めてきた。(早野透(1995)、p.166)

三条市と燕市にまたがる新幹線駅は、所在地を三条市として、「燕三条」駅となった。これが、鉄道と政治の文脈で、あるいは三条と燕のライバル視の文脈で、巷間言い継がれていく。

このような経緯があったからか、田中が社長を務める越後交通は、燕三条駅に乗り入れる乗合路線バスでは「新幹線駅」を多用していた。(続く)

(文・藤井大輔)

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